少女の決意
梅雨明けの蒸し暑い午後、探偵事務所「桜木調査室」のドアがそっと開いた。
「あの…桜木探偵さんですか?」
おずおずと顔を覗かせたのは、制服姿の少女だった。黒髪のポニーテール、大きな瞳に不安と決意が混じっている。
「ああ、そうだよ」桜木龍也は優しく微笑んだ。「君は?」
「佐藤美咲です。16歳です」
彼女は深呼吸をして、言葉を続けた。「父の…浮気調査をお願いしたいんです」
桜木は一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐに真剣な顔つきになった。「お座りなさい。詳しく聞かせてください」
美咲は緊張した様子で椅子に座った。
「最近、母の様子がおかしいんです。よく泣いているし、父との会話も減っています。そして…」
彼女は躊躇したが、意を決して続けた。「父の携帯に、知らない女性からのメッセージが届いているのを見てしまって…」
桜木はゆっくりと頷きながら、美咲の話に耳を傾けた。彼女の話す家族の様子、父親の最近の行動の変化、母親の様子。全てを丁寧にメモに取っていく。
「美咲さん、ご両親はこの調査のことを知っていますか?」
美咲は首を横に振った。「いえ…内緒です。でも、このままじゃ家族がバラバラになっちゃうかもしれないんです」
彼女の目に涙が浮かんでいた。
桜木は深く考え込んだ。未成年からの依頼、しかも本人の両親に関することだ。簡単に引き受けるわけにはいかない。
「美咲さん」桜木は慎重に言葉を選んだ。「この調査は、君の家族に大きな影響を与える可能性があります。本当に望んでいることなのかい?」
美咲は一瞬たじろいだが、すぐに強い意志の表情を見せた。「はい。家族を守るためなら、何でもします」
桜木は長い間、美咲を見つめていた。そしてとうとう、意を決したように静かに頷いた。
「わかりました。調査をお引き受けしましょう。ただし」彼は真剣な眼差しで美咲を見た。「真実は、時として予想外の形で現れることがあります。それでも向き合う覚悟はありますか?」
美咲は小さく、しかし強く頷いた。
桜木は窓の外を見やった。梅雨明けの空に、まばらな雲が浮かんでいる。これから始まる調査が、この少女と彼女の家族にどんな影響を与えるのか。彼は静かに深呼吸をした。
家族の肖像
その夜、美咲は自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。
佐藤家。一見、平凡な四人家族。父・健太郎(45歳)は大手商社のサラリーマン。母・理恵(42歳)は専業主婦。そして美咲と、中学生の弟・翔太(13歳)。
しかし最近、その平穏に亀裂が入り始めていた。
美咲は、半年前のことを思い出していた。
父の誕生日パーティー。家族全員で手作りケーキを作り、父の好きな料理を並べて祝った。父は嬉しそうに笑い、母は誇らしげに家族を見守り、弟はいたずらっぽく父にじゃれついていた。
あの時の幸せそうな光景が、今では遠い記憶のように感じる。
今の父は、いつも疲れた顔で遅く帰ってくる。たまに聞こえてくる、両親の小さな言い争い。そして、母のため息と寂しそうな表情。
美咲は、スマートフォンの画面を開いた。父のSNSアカウント。最近、見知らぬ女性のコメントが増えている。
「これが、全ての原因なのかな…」
彼女は、胸が締め付けられるような思いだった。
ノックの音がして、母・理恵が部屋に入ってきた。
「美咲、まだ起きてたの?」
「ああ、うん…宿題してたから」美咲は慌ててスマートフォンを隠した。
理恵は娘のベッドの端に腰かけた。「最近、元気がないみたいだけど…何かあったの?」
美咲は母の優しい眼差しに、思わず涙が込み上げてきた。でも、今は話せない。
「ううん、大丈夫。ちょっと学校のことで悩んでるだけ」
理恵は優しく美咲の頭を撫でた。「そう…何かあったら、いつでも話してね」
母が部屋を出て行った後、美咲は深いため息をついた。
「ごめんね、お母さん。でも、きっと家族を守ってみせるから」
彼女は固く握りしめた拳を見つめた。明日から、桜木探偵の調査が始まる。真実がどんなものであれ、美咲は覚悟を決めていた。
影を追う
翌日、桜木は佐藤家の周辺で調査を開始した。
美咲から聞いた情報によると、父・健太郎の行動に不審な点があるのは主に木曜日。いつもより早く帰宅するその日、健太郎は「同僚との飲み会」を理由に夜遅くまで出かけるという。
木曜日の夕方、桜木は佐藤家の近くに車を停め、健太郎の帰宅を待った。
予定通り、健太郎は普段より早く帰宅。しばらくして、ジャケット姿で家を出る姿が見えた。桜木は静かに車を発進させ、健太郎の後を追った。
健太郎が向かったのは、繁華街にあるホテル。しかし、バーやレストランではなく、健太郎はそのままエレベーターに乗り込んだ。
桜木は眉をひそめた。この状況は、典型的な不倫のパターンに見えた。
しかし、15分後、意外な展開が待っていた。
健太郎が部屋から出てきたのだが、彼は一人ではなかった。同行していたのは、車椅子に座った高齢の男性だった。健太郎は優しく男性に話しかけながら、ゆっくりとエレベーターに向かっていく。
桜木は驚きを隠せなかった。これは明らかに、単純な不倫とは違う状況だった。
二人を追って外に出ると、健太郎は高齢者を介護タクシーに乗せ、深々と頭を下げている。タクシーが走り去った後、健太郎は疲れた表情で近くのベンチに座り込んだ。
桜木は慎重に健太郎に近づいた。
「お疲れさまです」
健太郎は驚いて顔を上げた。「あなたは…?」
「探偵の桜木と申します」桜木は名刺を差し出した。
「実は、お嬢さんの美咲さんから依頼を受けて…」
健太郎の表情が凍りついた。
秘密の重み
健太郎のアパートの一室。質素だが清潔に保たれた6畳ほどの部屋に、健太郎と桜木が向かい合って座っていた。
健太郎は深いため息をついた。「ここが父の住まいです」
「そうだったんですね」桜木は静かに頷いた。「あの高齢の男性が、佐藤さんのお父様なんですね」
健太郎は疲れた表情で頷いた。
「はい…3年前に母が他界してから、父の認知症が急速に進行して…施設に入れることも考えましたが、父が強く拒んで」
彼は言葉を切り、窓の外を見つめた。
「でも、このことを家族に話せなかった。特に妻には…」
「なぜですか?」
桜木は静かに尋ねた。
健太郎は苦しそうな表情を浮かべた。
「妻の実家は、かつて父の会社と業務上のトラブルがあって…父のことを良く思っていないんです。結婚の時も大反対でした」
彼は頭を抱えた。
「父の世話をしていると知ったら、妻との関係にヒビが入るかもしれない。子供たちにも影響が…それに、子供たちは祖父のことをほとんど知らないんです。認知症になる前から、会う機会がなかったので」
桜木は深く考え込んだ。これは単純な浮気問題ではない。家族の絆と、隠された真実の狭間で苦しむ男性の姿があった。
「佐藤さん」桜木は真剣な眼差しで健太郎を見た。
「あなたの気持ちはよくわかります。しかし、このままでは家族との溝が深まるばかりです」
健太郎は黙って頷いた。
「美咲さんは、家族のために真実を知りたいと願っています。あなたの苦労や思いを、きっと理解してくれるはずです」
健太郎の目に、小さな希望の光が灯った。
「家族で向き合う時が来たのかもしれません」彼はつぶやいた。
桜木は静かに頷いた。この家族の再生に向けて、まだ長い道のりが待っているように感じた。
真実との対峙
その夜、佐藤家のリビングに重苦しい空気が漂っていた。美咲、母・理恵、弟・翔太が集まり、父・健太郎の帰りを待っている。
美咲は桜木から聞いた話の概要を家族に伝えた。父が誰かと会っていること、それが不倫ではないこと。しかし、詳細は父本人から聞くべきだと考え、伏せていた。
玄関のドアが開く音。全員の視線が一斉にそちらに向けられる。
「ただいま…」健太郎の声が小さく響いた。リビングに入ってきた彼は、家族全員が集まっているのを見て驚いた表情を浮かべた。
「お父さん、話があります」美咲が静かに、しかし決意を込めて言った。
健太郎は深く息を吐き、ゆっくりとソファに腰かけた。
「皆、聞いてほしいことがあるんだ」彼は震える声で話し始めた。「実は…祖父のことで、隠していたことがあるんだ」
理恵の表情が硬くなる。美咲と翔太は息を呑んで父の言葉に耳を傾けた。
健太郎は、認知症になった父親のこと、週に一度の介護のこと、そしてそれを家族に隠していた理由を、一つ一つ丁寧に説明した。さらに、子供たちが祖父とほとんど会ったことがないこと、その背景にある家族の複雑な事情についても、できる限り率直に話した。
話し終えた健太郎の目には、悔しさと申し訳なさが滲んでいた。
沈黙が部屋を支配する。
その沈黙を破ったのは、意外にも翔太だった。
「お父さん、すごいじゃん」彼は真剣な表情で言った。「おじいちゃんのために、そこまでしてたなんて」
美咲も頷いた。「私…知りたかった。お父さんが困ってることとか、悩んでることとか…」彼女は少し言葉を詰まらせながら続けた。「家族なんだから、一緒に考えられたはずだよ」
健太郎は申し訳なさそうに頭を下げた。「すまない。お前たちを信じられなかったわけじゃない。ただ…」
彼は妻・理恵の方を見た。理恵は複雑な表情を浮かべていた。
「理恵、君には特に申し訳ない。君の両親のことを考えると、言い出せなくて…」
理恵は長い間黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「確かに、あなたのお父様のことは複雑な思いがあります。でも…」彼女は深く息を吐いた。「家族なのよ。一緒に向き合っていけばよかったのに」
健太郎の目に涙が浮かんだ。
「これからは、みんなで協力していこう」理恵は優しく言った。「おじいちゃんのこと、私たちも手伝えることがあるはずよ」
美咲と翔太も強く頷いた。
健太郎は感極まって言葉を失った。家族の絆は、彼が思っていた以上に強かった。
その夜、佐藤家に新しい風が吹き始めた。まだ多くの課題は残っているが、一緒に乗り越えていく。そう、全員が心に誓った瞬間だった。
新たな一歩
翌日の朝、佐藤家の朝食の風景は、いつもと少し違っていた。
テーブルを囲む家族の表情には、昨夜の会話の余韻が残っている。しかし、それと同時に、新たな決意のようなものも感じられた。
「お父さん」美咲が、朝食のトーストを手に取りながら切り出した。「おじいちゃんに、会いに行ってもいい?」
健太郎は驚いた表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みに変わった。「ああ、もちろんだ。喜ぶと思うよ」
「僕も行く!」翔太が元気よく手を挙げた。「おじいちゃんと将棋やりたいな」
理恵もゆっくりと頷いた。「私も…お義父さまにご挨拶しないといけませんね」彼女の声には、まだ少し緊張が感じられたが、それでも前を向こうとする強さがあった。
健太郎は家族の反応に、胸が熱くなるのを感じた。
「みんな…ありがとう」
その日の午後、佐藤家全員でおじいちゃんの住むアパートを訪れることになった。
アパートの前で、健太郎は深呼吸をした。「父は…認知症があるから、みんなのことを覚えていないかもしれない。特に子供たちとは会ったことがほとんどないからね。でも、きっと喜ぶと思う」
ドアを開けると、車椅子に座った老人が、少し不安そうな表情で家族を見ていた。
「お父さん、みんなを連れてきたよ」健太郎が優しく語りかける。
老人の目が、ゆっくりと家族一人一人を見ていく。そして、突然、彼の目に涙が浮かんだ。
「健太郎…お前の家族か?」かすれた声だったが、確かな喜びが感じられた。
美咲が一歩前に出て、深々とお辞儀をした。「はじめまして、おじいちゃん。私、美咲です」
老人は微笑んだ。「美咲…いい名前だ」
翔太も前に出て、元気よく挨拶する。理恵も、緊張しながらも優しく語りかけた。
その日の午後、佐藤家の新しい歴史が始まった。おじいちゃんを囲んで、家族全員で話をし、笑い、時には昔の思い出に涙する。
帰り道、美咲は父の横顔を見つめた。疲れているけれど、晴れやかな表情。
「お父さん」美咲が静かに呼びかけた。「ありがとう。本当の家族の姿を見せてくれて」
健太郎は優しく娘の頭を撫でた。「いや、美咲こそ…ありがとう。君が勇気を出してくれたおかげだ」
美咲は小さく頷いた。まだ解決すべき問題は多いだろう。でも、家族で一緒に乗り越えていける。そう確信できた瞬間だった。
車の中で、佐藤家の未来について、みんなで話し合う声が響いていた。