疑惑の影
梅雨の晴れ間、探偵事務所「桜木調査室」を訪れたのは、中年のビジネスマン・田中洋介だった。窓から差し込む陽光が、彼の疲れた表情を浮き彫りにしている。
「妻が…浮気をしているのではないかと」
桜木龍也は、洋介の言葉に静かに頷いた。探偵歴15年の彼にとって、こうした相談は珍しくない。
「具体的に、どのような様子が気になりますか?」桜木は穏やかに尋ねた。
洋介は深いため息をついた。「最近、妻の美香が頻繁に外出するようになったんです。帰りも遅くなることが多く、『仕事』と言うのですが…」彼は言葉を詰まらせた。「美香とは大学時代から付き合い、結婚して15年になります。最初の10年は、お互いを理解し合える理想的な夫婦だと思っていました」
桜木は丁寧にメモを取りながら、洋介の話に耳を傾けた。妻・美香の年齢、職業、最近の行動パターンの変化。そして、洋介自身の仕事や家庭での様子。
「田中さん、奥様との関係はいかがですか?最近、何か変化はありましたか?」
洋介は少し考え込んだ。「そういえば…ここ数年、二人で話す機会が減っていたかもしれません。私の仕事が忙しくて…」彼の目に、後悔の色が浮かんだ。「出世して責任ある立場になったことで、家にいる時間が減ってしまって」
桜木は静かに頷いた。現代社会における夫婦関係の難しさを、彼は痛いほど理解していた。かつて自身も、仕事に没頭するあまり大切な人を失った経験があったからだ。
「わかりました。調査をお引き受けいたします。ただし」彼は真剣な眼差しで洋介を見つめた。「真実を知ることで、辛い結果になることもあります。それでもよろしいですか?」
洋介は一瞬躊躇したが、すぐに決意を固めたように頷いた。「お願いします。どんな真実でも、知りたいんです」
桜木は窓の外を見やった。雨上がりの空に、かすかな虹が見えた。真実の向こうに、希望はあるのだろうか。彼はそう考えながら、調査の準備に取り掛かった。
追跡の日々
調査が始まって3日目、桜木は美香の行動を慎重に追跡していた。彼女が勤める広告代理店のオフィスの前で、スマートフォンを操作しながら、さりげなく待機している。
時計が午後6時を指す。美香がオフィスビルから出てきた。スーツ姿の彼女は、疲れた様子ながらも、どこか生き生きとした表情を浮かべている。
桜木は距離を置いて彼女の後を追う。電車に乗り、都心から少し離れた住宅街で下車。美香は小さなコンビニに立ち寄り、何かを購入してから歩き始めた。
そして、閑静な住宅街にある小さなアパートの前で彼女は立ち止まった。
桜木は息を潜めて見守る。美香はアパートに入り、1時間ほどで出てきた。その表情には、どこか晴れやかなものがあった。
「これは…」桜木は眉をひそめた。状況は、典型的な不倫のパターンに見えた。しかし、何かが違和感を覚えさせる。美香の表情に、罪悪感や焦りが見られないのだ。
翌日、桜木は再びそのアパートを訪れた。管理人から聞き出した情報で、そこに住むのは70代の老婦人・佐藤さくらだと判明。不倫相手がいるという推測は覆されたが、新たな謎が生まれた。
美香は一体、何のためにここを訪れているのか。
調査5日目、桜木は美香の行動パターンに気づいた。彼女は週に3回、仕事帰りにこのアパートを訪れていた。そして、訪問のたびに近所のコンビニで何かを購入している。
好奇心に駆られた桜木は、ある日、美香の後につづいてコンビニに入った。レジで彼女が精算するのを見て、彼は「なるほど」と小さくつぶやいた。
美香が購入したのは、介護食と日用品だった。
記憶の中の二人
洋介は、美香との思い出に浸っていた。
大学3年生の春、桜の舞う中央広場で初めて出会ったときのこと。美香の明るい笑顔と知的な話し方に、洋介はすぐに心を奪われた。二人で夜遅くまで語り合った大学の図書館。卒業旅行で訪れた海辺で、プロポーズをしたこと。
結婚して最初の5年間は、まさに幸せの絶頂だった。小さなアパートでの新婚生活。休日には二人で料理を作り、将来の夢を語り合った。美香の両親に挨拶に行ったときの緊張感。そして、二人で一緒に乗り越えた様々な困難。
しかし、いつからだろう。二人の間に距離ができ始めたのは。
洋介の昇進。増えていく仕事の責任。遅くなる帰宅時間。美香との会話が、日常的な事務連絡だけになっていったこと。
彼は深いため息をついた。かつての二人の姿と、現在の冷めた関係。その隔たりに、胸が痛んだ。
「私たちは、どこで道を間違えてしまったんだろう…」
洋介は、桜木からの連絡を待ちながら、自問自答を繰り返していた。
意外な真相
一週間の調査を経て、桜木は洋介との面会の場を設けた。
事務所に入ってきた洋介の表情は、疲れと不安が入り混じっていた。
「田中さん、奥様の行動について、わかったことをお話しします」
洋介は緊張した面持ちで頷いた。
「結論から申し上げますと、奥様に不倫の事実はありません」
洋介の表情が驚きに変わる。「では、あの外出は…?」
桜木はゆっくりと説明を始めた。「奥様は、ボランティア活動をされていたのです。認知症の老人の話し相手や、生活支援をする団体に所属されていました」
「ボランティア?」洋介は驚きを隠せない様子だった。
「はい。奥様が頻繁に訪れていたアパートには、佐藤さくらさんという70代の独居老人が住んでいます。認知症の初期症状があり、奥様は週に3回、食事の準備や話し相手として訪問していたのです」
桜木は続けた。「さらに調べたところ、奥様はこの活動を半年前から始めていました。きっかけは、職場の先輩からの紹介だったようです」
洋介は複雑な表情を浮かべていた。安堵と、自分が妻のことを理解していなかったという後悔が入り混じっている。
「そして、もう一つ重要なことがあります」桜木は慎重に言葉を選んだ。「奥様は、あなたにこの活動を知られたくなかったようです」
「どういうことでしょうか?」
「田中さん、奥様はあなたの仕事の忙しさを気遣って、自分の時間の使い方を説明するのを避けていたのではないでしょうか。おそらく、自分の新しい活動があなたの負担になると考えたのかもしれません」
洋介の表情が複雑に変化した。「私が、妻のことをそんなふうに見ていたなんて…」
桜木は静かに続けた。「そして、もう一つ。奥様は、このボランティア活動を通じて、ご自身のキャリアについて考え始めているようです。介護や福祉の分野での仕事を探し始めていました」
洋介は驚きを隠せない様子だった。妻の新たな一面を知り、複雑な感情が入り混じっているようだった。
美香の内なる声
美香は、佐藤さくらさんのアパートを出た後、近くの公園のベンチに腰掛けた。夕暮れ時の空が、オレンジ色に染まっている。
彼女の心の中で、様々な感情が渦巻いていた。
半年前、職場の先輩から誘われてボランティア活動を始めたときは、単なる気晴らしのつもりだった。しかし、佐藤さんと関わるうちに、自分の中で何かが変わり始めたのを感じていた。
「美香ちゃん、ありがとうね。あんたが来てくれると、本当に嬉しいんだよ」
佐藤さんのその言葉が、美香の心に深く刻まれていた。長年、広告代理店で働いてきた彼女。華やかな仕事の裏で、本当に人の役に立っているのかという疑問が常にあった。
しかし、佐藤さんとの時間は違った。直接誰かの人生に関わり、その人を支えることの喜びを、美香は初めて知ったのだ。
そして、その経験が自分のキャリアについて考えるきっかけになった。介護や福祉の世界。今までとは全く違う分野だが、そこに新しい可能性を感じていた。
ただ、それを洋介に話すことができずにいた。夫の仕事の忙しさを知っている。自分の新しい挑戦が、彼の負担になるのではないかと心配だった。
美香は空を見上げた。心の中にある、新しい夢への期待と、現状を変えることへの不安。そして、夫との距離が広がっていることへの寂しさ。
「洋介…あなたと、ゆっくり話したいな」
彼女は静かにそうつぶやいた。夕暮れの風が、彼女の髪をそっと撫でていった。
探偵の過去
その夜、桜木は自宅のベランダで缶ビールを飲んでいた。都会の夜景を見下ろしながら、今回の事件のことを考えていた。
そして、自然と彼の思考は過去へと遡っていった。
10年前、彼もまた洋介と同じような立場にいた。当時、桜木は新進気鋭の刑事として、警察内でも注目される存在だった。事件解決への情熱と鋭い洞察力で、難事件を次々と解決していった。
しかし、その代償は大きかった。家族との時間は減り、妻との会話も少なくなっていった。そして、ある日突然、妻が去っていった。
「龍也、あなたは仕事を選んだのね。私にはもう、ここにいる理由がないわ」
その言葉が、今でも彼の胸に刺さっている。
失意の中、桜木は警察を辞め、探偵になることを選んだ。人々の人生に寄り添い、真実を明らかにすること。それが、自分の新しい使命だと感じたのだ。
そして今、田中夫妻の事件。彼らの姿に、かつての自分を重ね合わせずにはいられない。
「まだ間に合う」桜木は静かにつぶやいた。「彼らには、まだチャンスがある」
彼は缶ビールを置き、部屋に戻った。明日、洋介と美香に会う約束をしているのだ。二人の誤解を解き、新たな未来への一歩を踏み出す手助けをする時が来たのだ。
和解への道
翌日、桜木の事務所に洋介と美香が訪れた。二人とも緊張した面持ちで、距離を置いて座っている。
桜木は静かに話し始めた。「お二人とも、今回の件で多くの不安や戸惑いがあったことと思います。しかし、これは新たな出発点になるかもしれません」
彼は美香に向き直った。「美香さん、あなたのボランティア活動のこと、そして新しいキャリアへの興味について、洋介さんに話してみてはいかがでしょうか」
美香は驚いた表情を浮かべたが、ゆっくりと口を開いた。「実は…半年前から、認知症の高齢者支援のボランティアを始めたの」彼女は洋介の反応を恐れるように、チラリと夫を見た。「そこで、人の役に立つ喜びを知って…介護や福祉の仕事に興味を持ち始めたの」
洋介は驚きと複雑な表情で美香を見つめていた。
美香は続けた。「でも、あなたに話せなかった。仕事で忙しいあなたに、自分の新しい挑戦が負担になるんじゃないかって…」
桜木は洋介に目を向けた。「洋介さん、奥様の話を聞いて、どう思われますか?」
洋介は深く息を吐いた。「正直、驚いています。でも…」彼は美香の目を真っ直ぐに見た。「君がそんな素晴らしいことをしていたなんて、誇りに思うよ。そして、君の新しい夢を応援したい」
美香の目に涙が浮かんだ。「洋介…」
洋介は続けた。「僕こそ謝らなければいけない。仕事に没頭するあまり、君の気持ちに気づかなかった。これからは、もっと君のことを理解しようと思う」
桜木は静かに二人を見守っていた。「お二人とも、まだ理解し合える関係なのだと思います。これを機に、もう一度向き合ってみてはいかがでしょうか」
美香と洋介は、お互いを見つめ合い、小さく頷いた。
桜木は立ち上がり、窓の外を見た。梅雨が明け、清々しい青空が広がっていた。「新しい季節の始まりですね」彼は微笑んだ。「お二人の新たな出発にもぴったりかもしれません」
その日の夕方、美香と洋介は久しぶりに二人で食事に出かけた。レストランのテーブルで、彼らは照れくさそうに、でも真剣に向き合って話をしていた。
数週間後、桜木のもとに一通の手紙が届いた。
「桜木さん、おかげさまで妻との関係が劇的に改善しました。美香の新しい挑戦を、家族で応援しています。彼女は今、介護の資格取得に向けて勉強を始めました。私も、仕事と家庭のバランスを見直すきっかけになりました。真実を明らかにし、私たちに向き合う機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。田中洋介・美香」
桜木は穏やかな笑みを浮かべた。浮気調査の依頼が、思わぬ形で夫婦の絆を深める結果になったのだ。
彼は窓の外を見やった。街路樹の緑が鮮やかに光っている。そこに一羽の鳥が舞い降りた。新しい巣作りの季節の始まりを告げるかのようだった。
桜木は深く息を吐いた。また新たな依頼が舞い込むだろう。そしてそこには、また新たな人生ドラマが待っているに違いない。
彼は静かに立ち上がり、コートを羽織った。外の世界へ、次なる真実を追いに出かける時間だ。
(完)